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【解答】中学歴史 近世の日本 中世から近世へ 練習問題1 解答

世界の歴史

地図を見て、次の問いに答えて下さい。

(1)地図中の①・②の航路を発見したのは誰ですか?

答え 

コロンブス(クリストファー・コロンブス)

大航海時代において最初にアメリカ海域・大陸へ到達したイタリア人である。
尚、アメリカの先住民である「インディアン」はコロンブスが名付けた。アメリカの先住民であるにも関わらず「インディアン」となったのは、当初彼は発見した島をインドか、その周辺の島と勘違いした為であると言われている。

バスコ・ダ・ガマ

探検家である。ヨーロッパからアフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初の人物であり、インドへの航路を初めて「発見」したヨーロッパ人であるとされる。このインド航路の開拓によって、ポルトガル海上帝国の基礎が築かれた。

答え ①(クリストファー・コロンブス)、②バスコ・ダ・ガマ

(2)③の航路を通って世界一周に成功したのは誰ですか?

答え  マゼラン

ポルトガルの航海者、探検家。南アメリカ大陸の南端を発見して、初めてヨーロッパから西回りで太平洋に到達し、途中フィリピンでラプ=ラプ王との戦いにより4月27日に戦死したが、残された艦隊が史上初めての世界一周を達成した。

(3)15世紀に、A・Bに栄えた帝国の名前を書いて下さい。

答え A:アステカ、B:インカ

アステカ

   

1325年から1521年まで中米メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の王国。最盛期のアステカはメキシコ湾から太平洋沿岸にまでを領有し500万人以上の人民を支配した。首都テノチティトランの人口は数十万人に達し、当時、世界最大級の都市であった。中心部には神殿や宮殿が立ち並び市もたって大いに繁栄した。

インカ

   

現在のチリ北部から中部、アルゼンチン北西部、コロンビア南部にまで広がっていた。首都はクスコ。インカ文明と呼ばれることもある。その場合は、巨大な石の建築と精密な石の加工などの技術、土器や織物などの遺物、生業、インカ道を含めたすぐれた統治システムなどの面を評価しての呼称である。

(4)16世紀に、A・Bの国を滅ぼしたヨーロッパの国はどこになりますか?

答え スペイン

アステカ帝国の滅亡

1519年2月、総督の命令を無視してアステカ征服を目指して16頭の馬と大砲や小銃で武装した500人の部下を率いてユカタン半島に上陸した。400人の部下と千人のトラスカラ軍を率いてモクテスマ2世を捕らえると宮殿に幽閉しアステカを滅ぼした。
その後スペインは金銀財宝を略奪し徹底的にテノチティトランを破壊しつくした。アステカ人の多くが奴隷にされスペインのメキシコ経営に酷使され倒れ、あるいは旧大陸から伝わった疫病に感染し、そのため地域の人口が激減した。
その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民はあっという間に激減した。

インカ帝国の滅亡

スペインの征服者たちは、フランシスコ・ピサロ兄弟に率いられパナマから南下し、1526年にインカ帝国の領土に達した。彼らが大いなる財宝の可能性に満ちた富裕な土地に達したのは明確であったので、ピサロは1529年の遠征の後に一旦スペインに帰国し、その領域の征服と副王就任に係る国王の認可を得た。
中央アメリカから広まった天然痘などにより、インカ帝国はかなり弱体化していた。ピサロは当時、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力で、インカ軍に比べスペインの完全防備の騎兵は、技術的に大きく優越していた。
スペイン人たちに、王を捕まえ王が幽閉されていた大部屋1杯分の金と2杯分の銀を提供した。1572年、インカの最後の要塞が征服され、マンコ・インカの皇子で最後の皇帝トゥパック・アマルは捕らえられ、クスコで処刑された。ここにインカ帝国の政治的権威下でのスペインによる征服への抵抗は終結した。

(5)次の文の(  )にあてはまる語句を書いて下さい。

これらの航路は、絹織物・(  )・香料などをアジアから直接手に入れようと開かれた。

答え 胡椒(こしょう)

胡椒は、強力な殺菌・抗菌作用が知られており、冷蔵技術が未発達であった中世においては、料理に欠くべからざるものでもあり、大航海時代に食料を長期保存するためのものとして極めて珍重された。ヨーロッパの様々な料理に使われており、またその影響を受けた様々な料理でも使われている。このため、インドへの航路が見つかるまでは、ヨーロッパでは非常に重宝されていた。取引には、金と胡椒が同重量で交換された時代もあった。

 

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