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中学歴史 近世の日本 中世から近世へ 練習問題3 解答

歴史

中学歴史 近世の日本 中世から近世へ 練習問題3 解答


 絵を見て、次の問いに答えて下さい


(1)絵は何をしているところですか?


   答え (太閤)検地・けんち


     全国的な規模で統一された、田畑の測量及び収穫量調査。太閤検地によって、各地の石高が確定された。



(2)検地をはじめて全国的に行ったのは誰になりますか?


   答え 豊臣秀吉(とよとみひでよし)


     織田信長によって大規模な検地が行われており、太閤検地の原型になったといわれている、全国的に行った


   のは豊臣秀吉になります。



(3)検地の後、収穫高は何で表されるようになりましたか?



   答え 石高(こくだか)


     一石は大人一人が一年に食べる米の量に相当することから、これを兵士たちに与える報酬とみなせば、


   石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味し


   ていた。


(4)豊臣秀吉は、太閤検地でどのようなことを調べましたか?2つ書いて下さい。


   答え  耕作者・収穫高・土地の良し悪し・土地の面積など



(5)次の文の(  )にあてはまる語句を書いて下さい。


    百姓は田畑の耕作権は認められたが、(  )を武士に納めることになった


   答え 年貢


     領主が百姓をはじめとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米


   (ねんぐまい)と呼ばれた。


     一つの土地の耕作者がその土地の唯一の権利者となり、土地の生産力は米の見込生産量である石高で計られる


   こととなった。年貢については、石高を村落全体で集計した村高(むらだか)に応じた額が、村の年貢量とされ、


   年貢納入は村落が一括納入の義務を負う村請(むらうけ)の形態が採用された。


  

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