律令国家を目指して−2
次の文を読んで、後の問いに答えてください。
中大兄皇子は、唐と新羅の連合軍が(①)を滅ぼそうとしたとき、軍隊を送ったが敗れ、その後、九州北部にⓐ兵士を置いて、ⓑ攻撃に備えた。また、ⓒ天皇に即位して戸籍をつくるなどして、改革を進めた。天皇の死後、ⓓ皇位をめぐって争いが起こった。この争いに勝った(天武)天皇は、天皇に権力を集中する国家の建設を推し進めた。また、(②)天皇のあとの694年、唐の都にならって、ⓔ奈良盆地に新しい都をつくった。701年には大宝律令が定められ、改新の方針が実現した。このようにしてできた国家を(③)という。
(1)文中の①~③にあてはまる後句・人名を書いてください。
① 百済、② 天武[天皇]、③ 律令国家
(2)下線部ⓐを何といいますか?
防人
日本の防人は、663年に朝鮮半島の百済救済のために出兵した倭軍が白村江の戦いにて唐・新羅の連合軍に大敗したことを契機に、唐が攻めてくるのではないかとの憂慮から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備の兵である。
(3)下線部ⓑのために築かれたものには、山城のほかに何がありますか?
答え 水城
7世紀中頃に構築された国防施設。現在の福岡県大野城市から太宰府市にかけてあった。水城は、博多湾方面からの攻撃から大宰府を守るための防御線となる直線状の堀と土塁である。
(4)下線部ⓒで、何天皇になりましたか?
答え 天智天皇
舒明天皇の第二皇子。母は宝女王(のちの皇極天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王、中臣鎌足らと謀り、クーデターを起こして蘇我入鹿を殺害し、叔父・孝徳天皇を即位させ、自身は皇太子となった。そして大化という元号を制定し、様々な改革を行なった(大化の改新の中心人物、乙巳の変)。また、有間皇子などのちのちクーデターを起こしそうな勢力を罠に嵌めて死刑とした。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、661年、斉明天皇が崩御した。その後、長い間皇位に即かず称制したが、663年、白村江の戦いで大敗を喫した後、667年、大津へ遷都してそこで即位した(668年)。白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。
また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後の670年には、我が国最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
天智天皇は、第一皇子・大友皇子に皇位を継がせたかったと日本書紀は伝える。しかし、天智の死後に起きた壬申の乱において弟・大海人皇子(天武天皇)が大友皇子に勝利して即位した。以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。称徳の死後、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が光仁天皇として即位し、それ以降は天智系統となる。大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だが、事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。
(5)下線部ⓓの戦いを何といいますか?
答え 壬申の乱
天武天皇元年(672年)に起きた日本古代最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ、明治3年(1870年)、弘文天皇の称号を追号)に対し皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。天武天皇元年は干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたるためこれを壬申の乱と呼んでいる。
(6)下線部ⓓのあと、倭はなんと呼ばれるようになりましたか?
答え 日本
(7)下線部ⓔの都を何といいますか?次のア~エから選んでください。
ア 平城京、イ 藤原京、ウ 難波宮、エ 飛鳥宮
答え イ
ア、平城京
藤原京から平城京への遷都(710年)した。
イ、藤原京
飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都した。
ウ、難波宮
大化の改新の後、645年に孝徳天皇は難波に遷都した。
エ、飛鳥宮
7世紀、飛鳥板蓋宮は皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。
コメント