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中学歴史 中世の日本 古代から中世へ 練習問題1解答

古代

中学歴史 中世の日本 古代から中世へ 練習問題1解答


 地図を見て、後の問いに答えてください。


(1)Aの進路を通って、京都に攻めのぼった武将は誰ですか?次のア~エから選んでください。


   ア、源義仲(みなもとよしなか)
   イ、
源義経(みなもとよしつね)
   ウ、
平清盛(たいらのきよもり)
   エ、
源頼朝(みなもとよりとも)



   答え 


(2)Bの進路を通って、京都に攻めのぼった武将は誰ですか?次のア~エから選んでください。


   


   ア、源義仲(みなもとよしなか)
   イ、
源義経(みなもとよしつね)
   ウ、
平清盛(たいらのきよもり)
   エ、
源頼朝(みなもとよりとも)


   答え 


(3)の地域で勢力を持っていた氏族の名を答えて下さい。


原秀衡(ふじわらひでひら)


    奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)


   前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から


   源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に


  出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った一族で天慶の乱を鎮めた藤原秀郷の子孫を称する豪族である。


    この頃都では保元の乱、平治の乱の動乱を経て平氏全盛期を迎えるが、秀衡は遠く


奥州にあって独自の勢力を保っていた。この時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、


   仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金によって支えられ、豊富な財力を


  以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。


 また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。



   答え 奥州藤原氏


(4)幕府が置かれたDの地名を答えて下さい。



   答え 鎌倉


(5)Eの場所で起こった平治(へいじ)の乱で、


  平清盛に敗れた武将を答えて下さい。


     VS


      平清盛  VS  源義朝



   答え 源義朝(みなもとよしとも)


(6)Fは、平氏が滅亡した場所になります。この地名を答えて下さい。



   答え 壇ノ浦(だんのうら)


(7)Gには、承久の乱(じょうきゅうの乱)後置かれた幕府の役所がありました。この役所の仕事を簡潔に


   答えて下さい。


 *承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕
の兵を挙げて敗れた兵乱である。承久の変、承久合戦ともいう。


   鎌倉幕府(北条義時)VS後鳥羽上皇



   答え 朝廷の監視と西日本の御家人(ごけにん)の統制。


(8)Hは、平清盛が整備した港になります。港の名を答えて下さい。



   答え 兵庫


(9)Iは、承久(じょうきゅう)の乱で、上皇が流された場所になります。この場所を次のア~エから選ん


   でください。


   ア、隠岐(おき)
   イ、佐渡(さど)
   ウ、伊豆(いず)
   エ、種子島(たねがしま)



   答え ア


(10)源頼朝が流された場所は何処になりますか?


  この場所を次のア~エから選んでください。


   ア、隠岐(おき)
   イ、佐渡(さど)
   ウ、伊豆(いず)
   エ、種子島(たねがしま)


   京・六波羅へ送られた頼朝の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼は、


  早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたことなども影響し、死一等を減ぜられ


  て頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)へと流された。



   答え ウ


 

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