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中学歴史 原始から古代へ 日本の古代国家の形成 基本問題3解答・解説

原始

中学歴史 原始から古代へ 日本の古代国家の形成 基本問題3解答・解説


 


(1)2つの地図の?.?の国名を書いて下さい。


 ? 隋は、中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年


 ぶりに再統一した(西晋の実質的な統一期間は30年間もないため黄巾の乱によって中国が分裂時代に


 入ってから数えれば400年ぶり)。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配す


 るようになる。都は大興城(長安、現在の西安市)。


 


 ?   唐は、中国の王朝。隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する


  大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。


    日本の場合は遣唐使などを送り、894年に菅原道真の意見で停止されるまで、影響を受けた。


 


  答え ? 隋(ずい)、? 唐(とう)


(2)?の都であるAの名を書いて下さい。


   唐の都は、長安(ちょうあん)になります。



  答え 長安



(3)朝鮮半島の国々の中で、7世紀中ごろの日本と最も関係が深かった国を地図中から選んで書いて


  下さい。


  後期、(538年 – 660年)
 
 聖王によって泗沘に都が移されると同時に、国号は南扶余としたが、その国号が国際的に定着すること


 はなかった。この頃、かつての百済の都であった漢江流域も新羅の支配下に入り、高句麗からの脅威は


 なくなったものの、これまで同盟関係にあった新羅との対立関係が生じた。聖王は倭国との同盟を強固


 にすべく諸博士や仏像・経典などを送ったが、554年には新羅との戦いで戦死する。ここにおいて朝鮮


 半島の歴史は高句麗と百済の対立から百済と新羅の対立へ大きく旋回した。百済は次第に高句麗との同


 盟に傾き、共同して新羅を攻撃するようになった。新羅の女王はしきりに唐へ使節を送って救援を求め


 た。東アジアの歴史は「高句麗-百済-倭国」と「唐-新羅」のブロックが対立する構図へと傾斜してい


 く。


  660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は


 熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡した。



   答え 百済(くだら)



(4)676年に朝鮮半島を統一した国を地図中から選んで書いて下さい。


  新羅(は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。新羅、半島北部の高句麗、半島南西部の百済の3か国が


 鼎立した7世紀中盤までの時代を朝鮮半島における三国時代という。


  7世紀中ごろに朝鮮半島をほぼ統一し、高麗、朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。



   答え 新羅(しらぎ)



 

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