農民のくらしと京都の都
1,墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)
723年(養老7)に出された三世一身法によって墾田は孫まで三代の間で私財化が認められていたが、それ
では三代後に国に返さなければならないことが見えており、農民の墾田意欲を増大させるには至らなかった。
それを踏まえ、この法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とした。
平城京における奈良仏教各寺の影響力の肥大化を恐れ、山城国への遷都を行った。
はじめに延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、わずか10年後の同13年(794年)に改めて平安京へ遷都
した。また東北地方を侵略し蝦夷を服属させるため、坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍を送った。しかし
晩年には、このような軍事と造作が百姓を苦しめているとして式家の藤原緒嗣に批判された。
794年(延暦13年)に桓武天皇により定められた日本の首都であった。
4,蝦夷
古代の蝦夷(えみし)は、本州東部とそれ以北に居住し、政治的・文化的に、日本やその支配下に入った
地域への帰属や同化を拒否していた集団を指した。統一した政治勢力をなさず、積極的に日本に接近する集団
もあれば、敵対した集団もあったと考えられている。しかし、次第に国力を増大させていく日本により、征服
・吸収されていった。蝦夷と呼ばれた集団の一部は中世の蝦夷(えぞ)、すなわちアイヌにつながり、一部は
日本人につながったと考えられている。
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