中学歴史 原始から古代へ 平城京から平安京へ クイズ解答
奈良の都
日本における貴族の登場は、7世紀後半から8世紀初頭の律令制成立期に求められる。このとき貴族の母体
となったのは、豪族階層であった。7世紀以前の倭国(日本)では、氏(うじ)と呼ばれる同族集団が形成さ
れていたが、その氏集団を統率する族長たちが豪族階層を構成していた。当時のヤマト政権は、
氏集団 = 豪族たちの連合政権としての性格も有していた。しかし、7世紀後半の天智・天武期以降、天皇
(大王)への権力集中化が急速に進み、中央豪族らは官人として再編成されていった。
3.国司
4.郡司
古代から中世の日本で、地方行政単位である国の行政官として中央から派遣された官吏で、四等官である
守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)等を指す(詳細は古代日本の地方官制も併せて。
郡の官吏(郡司)は在地の有力者、いわゆる旧豪族からの任命だったので、中央からの支配のかなめは国司
にあった。任期は6年(のちに4年)であった。国司は国衙において政務に当たり、祭祀・行政・司法・軍事の
すべてを司り、管内では絶大な権限を持った。
5.大宰府
大宝律令(701年)によって、九州の大宰府は政府機関として確立したが、他の大宰は廃止された。
6.朝廷
7.藤原氏
藤原氏は、中臣鎌足が大化の改新の功により天智天皇に賜った「藤原」の姓が、子の藤原不比等の流に
認められたのに始まる。
8.班田収受
開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。そのため、長屋王を中心とする朝廷は722年
(養老6年)に良田百万町歩開墾計画を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する
三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行した。この法では、新しく灌漑施設をつくって開墾した者は
三代のあいだ、もとからある池溝を利用した者は本人一代にかぎり、墾田の保有を認めた。
聖武天皇(しょうむてんのう)、は奈良時代の第45代天皇である。
母は藤原不比等の娘・宮子。
奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の
北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南
大門-中門間の左右には東西2基の七重塔(高さ約100メートルと推定される)が回廊に囲まれて建っていた。
天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。
11,日本書紀
奈良時代に成立した日本の歴史書である。日本における伝存最古の正史で、六国史の第一にあたる。
神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。
12,風土記
地方の歴史や文物を記した地誌のことをさす。また、日本の奈良時代に地方の文化風土や地勢等を国ごと
に記録編纂して、天皇に献上させた書をさす。
13,飛鳥文化
推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化である。時期としては、一般に仏教渡来から大化の改新
までをいう。
朝鮮半島の百済や高句麗を通じて伝えられた中国大陸の南北朝の文化の影響を受け、国際性豊かな文化で
もある。多くの大寺院が建立され始め、仏教文化の最初の興隆期であった。
14,万葉集
7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれた、日本に現存する最古の歌集である。天皇、貴族から下級官人、
防人など様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたもの。
天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設。
16,天平文化
7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。
この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。
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